【海外旅行】一人旅(バックパッカー)向けの世界の歩き方

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トゥールスレン虐殺博物館で学んだ教訓・真実

トゥールスレン虐殺博物館の入口

カンボジアの首都プノンペンにあるトゥールスレン虐殺博物館。こちらはプノンペン観光で必ず訪れたい場所ですが、楽しむ場所ではなく、ポル・ポト政権下での大虐殺の真実を明らかにする場所であり、犠牲者を追悼し世界平和を願い、後世に伝える役割を果たしています。



本記事では私が実際にトゥールスレン虐殺博物館を訪れて学んだこと、なぜそのような悲劇が起きたのか歴史的な背景を含めて紹介します。



残虐な描写も含まれており、どこまで記事として紹介するか悩みました。しかし、40数年ほど前の、遠い過去の出来事ではないカンボジアで起きた悲劇を知らない方にも伝えたい、これから訪れる予定の方には当時の歴史的背景を知ったうえで訪問してほしいと考えたうえです。是非、目を背けずに最後まで読んでいただきたいです。


時代背景について


トゥールスレン虐殺博物館を紹介する前に、まずは1970年代当時のカンボジアが置かれていた状況について。



1940年代から1970年代にかけて、現在のベトナムラオスカンボジアが含まれるエリアではインドシナ戦争といわれる、大きく3つの戦争が起こりました。


フランスとベトナム民主共和国北ベトナム)との戦争。ベトナム民主共和国が勝利し、ジュネーブ協定によってベトナムが北と南に分断。

南ベトナムアメリカを中心とする連合軍と、北ベトナム南ベトナムの民族解放戦線(ベトコン)との戦争。北ベトナムとベトコンが勝利し、ベトナム統一。

カンボジア王国(後のクメール共和国)政府軍と、クメール・ルージュを中心とする反政府勢力との戦争。クメール・ルージュが勝利し、民主カンプチア政権が樹立。



これらの戦争は、冷戦構造の下で、社会主義勢力と対立する性格を持っていました。さらに深堀りをすると、1970年代のカンボジアは、複雑な政治的混乱の時期であり、この時期にカンボジアを統治していたのは、主に以下の3つの政権に分けられます。


1953年にフランスから独立した後、ノロドム・シハヌークが国王として、後に政治指導者としてカンボジアを統治。しかし、シハヌークは冷戦下で中立政策をとりながらも国内での政治的支持を失い、次第に不安定な状況に陥ることに。

1970年、ロン・ノル将軍がクーデターを起こし、シハヌークを国外追放。このとき、カンボジアは「クメール共和国」として改名され、ロン・ノル政権がアメリカの支援を受けて反共産主義の立場を取った。しかし、政治腐敗や経済の悪化、内戦の激化によって国民の支持を失い、次第にクメールルージュの勢力が台頭する。

  • クメールルージュ政権(1975年~1979年)

1975年、クメールルージュ(ポル・ポト率いるカンボジア共産党)が首都プノンペンを占拠し、ロン・ノル政権を打倒。その後、カンボジアは「民主カンプチア」として改名され、急進的な共産主義体制が敷かれた。

1979年、隣国ベトナムカンボジアに侵攻し、クメールルージュ政権は崩壊。その後、親ベトナム派の「カンプチア人民革命党」による政府が設立され、カンボジアは長い再建の道を歩むことに。



このように、1970年代のカンボジアはクーデター、内戦、独裁政権といった激動の時代を経て、多くの苦難に直面した時期でした。そして、今回紹介するトゥールスレン虐殺博物館はクメールルージュが台頭した際に起きた出来事を記録として今に残しています。



クメールルージュとは?

クメールルージュは1970年代後半にカンボジアを支配した共産主義政党。最高指導者としてカンボジアの実質的な支配者でもあったポルポトは、マルクス・レーニン主義毛沢東思想を独自解釈した政策を実施し、都市住民は強制的に農村部へ移住させられ、全ての個人財産が没収されるなど、カンボジアを急速に原始共産主義へと変貌させました。



クメール・ルージュ政権時代は、カンボジアの歴史の中でも特に悲惨な時期であり、過激な共産主義政策によって飢餓、虐殺、強制労働を引き起こし、4年間で人口の約4分の1の犠牲者を出したとされています。当時のカンボジアの人口は約800万人、つまり200万人以上が犠牲になりました。大規模な虐殺と人権侵害による負の遺産は、現在のカンボジアにも大きな影を落としています。




トゥールスレン虐殺博物館について


トゥールスレン虐殺博物館は、カンボジアの首都プノンペンの中心部に位置し、クメールルージュ政権下で行われた大虐殺の記録を正確に保存するため、かつてS21と呼ばれていた収容所の跡地をそのままの状態で博物館として公開しています。


学校の校舎を収容所に


こちらは現在の博物館の様子。悲しいことに、元々は高校の校舎でした。これからの将来を担う、若い子供たちが学んでいた場所で大虐殺が行われたことになります。


収容所に連行された犠牲者


この場所で1976年から1979年までの3年足らずで、14,000~20,000人が収容されました。



そして、生還できたのはたったの8名。



クメールルージュは反革命の疑いのある政治犯をこれまでにも多く収容所に拘束しましたが、他の収容所と違う点は、釈放された者がいないこと。S21の存在自体が外部に気付かれないように秘密裏に拷問、そして処刑が行われました。




トゥールスレン虐殺博物館の展示について


館内では、S21での残虐行為を示す様々な証拠が公開されています。入館時に借りられる音声ガイドに従って、尋問室や独房、拷問器具などについて実際にどのようなことが起こったのか詳しく学ぶことができます。


収容者の自由を奪う足枷


こちらは実際に収容者の足に取り付けられた足枷。



悪人や犯罪者は罰せられるべきですが、信じられないことに、犠牲者の多くは無実の罪で連行されました。クメール・ルージュは「原始共産主義」の考えから革命に学問は不要として、教師や医者、技術者、僧侶などの知識人を手あたり次第、収容所に連行。読み書きができる、眼鏡をかけているだけで逮捕された人もおり、まさに異常です。




尋問室

尋問室と発見当時の写真


教室に鉄製のベッドが1つ置かれており、若干歪んでいます。



尋問室なのにテーブルと椅子がなく不自然に思うかもしれません。尋問とは名ばかりで、収容者は自らの潔白を主張することは許されません。



尋問=拷問。



無実の罪で連れて来られたにも関わらず、ウソの自白を強要するために拷問が行われました。写真では収容者がベッドにもたれかかるように放置されたまま亡くなっており、第一発見者が見たままの状態で撮影されたものです。


独居房

実際の独居房


狭くて暗い独居房は非常に劣悪な環境で、人間として扱われてないことが見て取れます。食事も満足に与えられないため、拷問や処刑だけでなく多くの収容者が病気や栄養失調で命を落としました。



独房のある建物の壁には「いくつかの棒」が刻まれてあり、後から知りましたが看守の多くが文字を読めないため、棒の数を目で見て独房を識別していました。多くの知識人を収容所に連行してきたことが分かる事実として驚愕です。



拷問器具

拷問器具と拷問の描写

拷問では、鞭打ちや爪を剥ぐ、指を切断、水責めや電気ショックなど、文字に書くだけでもおぞましい所業が行われました。これらの行為は明らかに常軌を逸しており、多くの収容者が拷問から解放されるためウソの自白をさせられました。


水責めに使用された器具


こちらは水責めに使用された器具。何の罪もない人がこれらの拷問を受けたと考えると心が痛くなります。


中庭に残された鉄棒


トゥールスレン虐殺博物館の中庭に不思議な器具があります。元々は校舎だったので鉄棒のようにも見えます。勘の良い方なら、ここに囚人が吊るされたと思ったかもしれません。実際は、想像を絶する拷問がここで行われました。



単に吊るされるだけでなく、鉄棒の下に置かれた壺に顔を沈められます。また壺の中には水ではなく、人糞や糞尿が入れられていました。



このような酷い仕打ちに耐えたとしても、拷問は自白するまで永遠に続きます。ウソの自白をした後に訪れるのは「処刑」。最終的に処刑されることが分かっていても自白した収容者たちの無念さに言葉が見つかりません。



何も悪いことをしてないのに理不尽な拷問を受ける。処刑されることが分かっていても自白する。さらに許せないことに、他に協力者がいるだろうと近親者や友人などの名前を無理やり挙げさせて、彼らをまた収容所に連行させていました。


展示物

収容者の遺品

博物館には、収容者の写真や衣服などが展示されており、これらは、S21での残虐行為の生々しい証拠として強い衝撃を与えます。他に、S21の存在が判明した後にクメールルージュの責任者が裁判にかけられた詳細やポルポト政権の実態についても詳しく学べます。


トゥールスレン虐殺博物館の展示物


収容者の遺骨もS21の施設内から発見されており、髑髏が展示されています。当然これらは、被害者を晒し者にしているわけではなく、S21で起こった悲劇を、クメールルージュ政権の残虐性を象徴するものとして後世に伝えること、そして亡くなった方を追悼する目的で展示されています。


トゥールスレン虐殺博物館を訪れて学んだこと



トゥールスレン虐殺博物館を訪れて、クメールルージュが何の罪もない人々に行った事実を目の当たりにして胸が痛くなりました。この怒りにも近い感情を、S21での尋問や拷問、処刑執行に関わった本物の犯罪者にぶつけたくなります。しかし、彼らも命令に従わなければ収容者と同じ目に遭ったとされており、やりたくて非道な行為をしてない者もいると考えると、人間の弱さ、人間の悍ましさに辟易すると同時に、ただ怒りをぶつけるだけでは本当の解決にはならないのだと感じました。



クメールルージュ政権崩壊から40年以上が経過し、カンボジアは徐々に復興へと向かっています。しかし、大虐殺の傷跡は未だに残っており、心的外傷を抱えたまま生活している生存者も多数います。カンボジア政府は、教育や啓発活動を通じて、過去の悲劇を風化させないように努めており、国際社会の支援を受けながら、着実に経済発展や社会基盤の整備が進められています。このような出来事が二度と繰り返されないように悲劇の歴史に学び、異なる視点を持つ人々との対話を重ね、平和のための礎を築いていくことが重要だと考えさせられます。



これからプノンペンを訪れる予定の方は、トゥールスレン虐殺博物館を訪れて、自分自身の目でも見て学んでください。そして昨今でも解決に至らない、世界中で起きている人権問題や平和問題において、少しでも関心を抱くきっかけにして頂きたいです。



現地にはオプショナルツアーで訪れることもできます。また少し距離が離れてますが、キリングフィールドと同時に訪れることも可能です。
キリングフィールド・トゥールスレン(S21)虐殺博物館 半日ツアー(プノンペン)




本記事では残虐な描写も含まれており他の旅記事と違って後味の良い内容ではありませんが、目を背けずに最後まで読んでいただき、ありがとうございました。